プロフィール

管理人
管理人

見てくれてありがとうございます。おがわんと申します。
ちょっと長くなりますが、よかったら僕の自己紹介にお付き合いください

こんな人間です

出身:地方の田舎(関東ではない)

居住地:東京都近郊、23区ではない

最終学歴:山梨大学教育学部(現在は教育人間科学部)

取得資格:養護学校教諭(現在は特別支援学校教諭)1種、小学校教諭1種

家族:コミュ力最強妻、お姉ちゃん小5・長男くん小2・末っ子くん年長の3兄弟
   の5人家族

好きなもの:ギター、音楽(ロック)、アニメ、キックボクシング。

好きな食べもの:カレー、ラーメン、コンビニスイーツ(シーズンごとに一通り試食)。

好きな飲み物:トマトジュース。お酒はそんなに強くないです。

性格:人見知り、会話が苦手なちょっとしたコミュ障。凝り性、オタク気質。

障害者福祉との出会い

まっったく褒められたものではありません。
ひとことで言うと「条件に合う大学がそこだった」から。

・とにかく東京に憧れていた。高校卒業したらすぐにでも田舎を出たかった。
・私大に行かせる金はない、どこでもいいから国公立にしてくれ、と親に言われていた。
・都会でバンドを組んで有名なライブハウスのステージに立つのが、誰にも言えない内緒の夢だった。

そんな僕がセンター試験でそこそこやらかした結果、担任が「ここはどうだ?」と提案してくれたのが山梨大学教育学部の養護学校(現在の支援学校)教諭養成コースでした。
センター結果よりも人間性を重視、試験科目は小論文課題と面接だけらしい(当時)、と。山梨は東京の隣だし、いいんじゃないか?と言われました。

養護学校教諭と聞いても全くピンと来ませんでした。保健室の先生?と思ったほどです。それぐらい当時の僕は障害を持った人との接点はなかったのです。

大学には「身内に障害者がいて…」とか、「小学生の時ボランティアに参加して…」とか、立派な理由でこの道を志してきた同期がたくさんいました。
人間性重視?で選ばれただけあって、同期の仲間たちはみんな個性的でいい人ばかりでした。

管理人
管理人

「オレは東京でひと旗あげるために田舎から出てきた、東京に近ければ何でもよかった」 なんてとても言えませんでした。

大学ではしょっちゅう障害児/障害者と関わりのあるボランティアがあり、強制参加ではないのですが、僕はなんとなく自然に参加していました。

もともと子どもは好きだったので学童保育みたいなことは楽しかったし、成人した障害者の方と関わるのも楽しかったです。
福祉車両を自分たちで運転して、車椅子の方とディズニーランドや東北方面に旅行に行ったこともあります。

学年が上がるにつれ、ボランティア運営の中心メンバーになるくらいハマっていきました。こうして、ちょっとずつ障害者福祉の世界に足を踏み入れていきました。

東京進出、障害者施設の支援員になる

大学卒業後も山梨で障害児者と関わる仕事をするのは自然な流れでした。大学時代の恩師のツテで、支援学校の臨時教師(産休代替)の話をいただき、高等部の担任にもなりました。

しかし田舎出身の若造は、まだ東京進出という夢も捨てきれませんでした。
臨時教師を2年半勤めたあと、「27歳になったら真面目に就職する」という約束で両親を説得し、何のアテもないまま東京に出てくるという暴挙を達成。
そこから2年ほど、どうしようもない極貧フリーターとして売れないバンドマンの底辺生活を送ります。

管理人
管理人

この時期は僕の黒歴史。でも楽しかったし、今の自分につながる貴重な経験もたくさんできたので後悔はないです。

好きなことだけで食べていくにはよっぽどの才能と努力が必要で、若かった僕は世の中を舐めていたんだと思います。音楽で売れる気配は全くないまま27歳になり、約束通りちゃんと働くことを決意しました。

手持ちの武器は、支援学校教諭の資格と障害児者と関わってきた経験。これで何ができるか考えながら近所のファミレスでタウンワークをパラパラめくり、目にとまった職場に電話しました。

ありがたいことにスムーズに採用が決まり、そこで働くことになりました。
東京とはいえ都会のビル群とは対極の、のどかな郊外にある身体障害者入所施設です。それから18年後にこの経験をネット上に書き綴ることになるなんて、当時は想像もしていませんでした。

やりがいのある仕事、はりきり過ぎて病む。

身体障害者入所施設ということで、利用者さんの9割以上は車椅子の方です。知的障害、精神障害を重複されている方もいます。

仕事は大変でしたが基本的には楽しくやっていて、とてもやりがいを感じていました。
職員は団結していて仲が良く、プライベートでの付き合いもあり。休みの日には気分転換してオンオフの切り替えもできていたので、胸を張って「仕事は楽しい」といえる毎日を過ごしていました。

仕事を始めて11年目の2018年、生活支援員チームの主任になりました。
それまでの仕事に加えて、チーム運営に関わる事務仕事や会議の量も増えました。基本的に通常の支援業務以外のデスクワークはいわゆる時間外になります。
残業したり、時間より早く出勤したりしてやるべき仕事をこなす日々でした。

この時すでに結婚していて子どももいましたが、このスタイルでなんとか生活は成り立っていました。
ただでさえ24時間365日の不規則勤務のうえ、定時を過ぎてもなかなか帰れないので妻には本当に苦労をかけていました。

管理人
管理人

それでも「パパがいきいきとして働いて、稼いできてくれるなら」
と言ってくれた妻には感謝しかありません。

実際、主任になってからもしばらくはやりがいを持って楽しく働いていました。
現場リーダーとして頼られることは嬉しかったし、組織運営にまつわるこれまで知らなかったことを知る機会も増えます。
そのうえで、「こうしたらもっと良くなるのに」と思うところを、変えていける立場になれたんだと思うとワクワクしました。

・前から思っていたが、この職場のこういう風潮は謎だよなぁ。
・自分が利用者だったら、この施設のこういうところが嫌だ。
・今まで知らなかったが、こんな無駄なコストがかかっていたのか。
・当たり前になっている古い習慣や考え方を見直したらどうだろう?

遅くまで残って文書を作成し、会議で提案したりしました。この頃がやりがいを持って仕事していた時期のピークだったと思います。

2020年、新型コロナウイルスの感染防止対策に追われ、施設の様子は一変。
これまで普通だったことに理不尽な制限がかかり、利用者さんにとっても職員にとっても嫌な時期でした。
何を許容し、何を制限するのか。毎月のように変わっていく対策情報に振り回され、現場リーダーとして「頼られて嬉しい」なんて言ってもいられなくなります。
延々と続くTO DOリストは増える一方で、夜勤の仮眠時間を削って仕事しても一向に減りません。
はじめて「やらなきゃいけないことを把握しきれない」状況に陥りました。

2022年夏、ついに施設内で感染者が出てクラスターが発生。
酷暑のなか手袋、ガウン、N95マスクの完全防備体制で業務にあたり、食事・排泄など最低限の支援と感染拡大防止対策だけで1日が終わってしまう特別対応の日々。
この頃から、夜眠れない日が何度か続くようになりました。

でもその頃はまだ自分の仕事に使命感があり、眠れない原因がプレッシャーやストレスという認識に至るまでにはしばらく時間がかかりました。
むしろ、やることはいっぱいあり過ぎるけど全部こなしてみせる、というアドレナリンのせいだと思っていました。
コロナ禍初期の頃は、なんならこの逆境も職場改善のチャンスにしてやる、とも。

しかし、睡眠不足による思考力・判断力の低下は、少しずつ確実に僕の生活を蝕んでいきました。。。

どん底を経験し、退職を決意…。

眠れないというのは本当につらいです。
家族が気持ちよさそうに寝息を立てている中、自分だけがいつまでたっても考えごとが止まらず脳が休息モードに入らない。
そのうち夜が明けてきて、ほとんど休めていないまま次の1日が始まります。
仕事の効率も悪くなり、以前ならありえないしょうもないミスが増えてくる。

思考回路もネガティブで攻撃的になっていきました。
その頃、自分から提案して始めた取り組みがいまいち成果が上がらなかったことも重なって、ストレスと不眠の悪循環でどんどん調子が悪くなっていきました。

数ヶ月後にはストレスの矛先が家庭にも向き始め、いよいよヤバいフェーズに入ります。
家での時間は仕事から解放される癒しのひとときだったはずなのに、ささいなことでイライラしている。まだ小さい子どもたちが、そんな僕の悪い影響を受けている。
とくに長男くんのストレス表現の仕方が不安定な時の自分にそっくりで、本当に怖くなりました。

自分は父親失格なのか? 
妻と子どもたちは僕のことを嫌ってるのでは?

被害妄想的な思考も強くなり、ネガティブな考えごとが夜通し頭の中をぐるぐるしてまた不眠。
翌朝不調 → 仕事うまくいかない → 家で不機嫌 → 家族に迷惑かける → ネガティブな考え事で不眠。悪循環の無限ループ。

この仕事をはじめて15年くらいまでの間にも、もちろん大変だったこと、辛かったことはありました。でも一度たりとも辞めたい、逃げたいと思ったことはなく、その選択肢すらなかった。

しかし不眠をきっかけに不調が続いて2年くらい経った2024年の春頃、あることがきっかけではじめて「逃げるのもありなのでは」という選択肢が浮かびました。
(この「ある事件」についてはいずれ記事にしたいと思っています。)

もちろん、そんな自分よりもっともっと辛い状態を経験している人はいると思います。逃げたくても逃げられない事情のある人だっているでしょう。
そんな人たちから見れば、僕はまだまだ全然甘いのだろうという自覚はあります。

一方で、終身雇用の時代が終わり、辞めることはそれほど悪いことではないという最近の価値観には少し背中を押されました。
少なくとも自分は、今の状況を変えるために、定年までここで働くことがベストの選択ではない、と感じるところまできていました。

ありがたいことに、多くの同僚が辞めることを惜しんでくれつつも
「つらそうだったもんね」
「とりあえずいったんゆっくり休んで」 と言ってくれました。

かくして、2025年6月末を持って18年お世話になった障害者支援施設を退職し、現役の生活支援員ではなくなりました。

この経験を外に向けて発信しよう

長くやってきて、このままこの業界とあっさりサヨナラも寂しい。
この経験を何かに活かすことはできないかな、と考え、ブログで発信することを思いつきました。
実は文章は昔から読むのも書くのも好きで、書くことは全く苦にならないので、これで誰かのお役に立てるならやってみようかな、と考えました。

このブログの主旨についてはこのサイトについてにも書いていますが、これまでの経験から、あれこれと思うことをこれからマイペースに発信していけたらと考えています。

そしてこのブログを含め、「文章を書いて伝える」ことにもっと真剣に取り組んでいきたいと思っています。
よろしくお願いします。

管理人
管理人

長文の自己紹介にお付き合いいただきありがとうございました。